僕、海野ひろしについて
典型的な静岡市民にして
ならず者(定義は後述)
普段は、堅苦しい文章とか好きでないのですぐ脱線するのですが、今回は明確な戦うべきものを見つけたので、ちゃんと書きます。退屈なのはご容赦ください。
あと、政治スタンスや、個別の施策提案の内容など質問がございましたら、本サイトからメッセージや、メールなどでお問い合わせください。
名前 海野 博(選挙時は、海野 ひろし)
生年月日 昭和51年(1976年)7月15日 (現在44歳)
旧清水市生まれの旧静岡市育ち、現在玉川地区在住
略歴
静岡の市政に関心を持つのは、大学卒業後、フリーターとしていろんなことに興味を持って活動していたところ、旧静岡市が主催する「静岡まちづくりの学校コラボ」という市民講座に触れたところより始まる。
市民のアイディアを行政がバックアップする形で地域の活性化を目指す、現在にも通じる先進的な活動に多くの可能性を感じるものの、まだ社会人としても経験の浅い自分に対して実現力などを実感できないまま終わるが、行動の原点はここにあると今でも思っている。
パソコンショップの店員だった時、自らがPCスキルがないのに販売していることに違和感を覚え、自らも学びながら教える形でPCインストラクターとなり、それなりに好評を得る。人とのコミュニケーションツールとしてPCやネットの可能性を感じる。さらにその経験を活かし、印刷会社にて紙面のレイアウト編集技術を得て、旧清水市の広報誌の編集に携わり、ちょうど合併直前の情報提供などに関わる。行政の発信する情報を目にするにつれ、市民がサービスを理解して有効にいかせたらもっと豊かな生活ができるのかなと思って過ごす。
社会人経験を活かした選抜が静岡県立大学経営情報学部にある事を知る。もともと前述の「静岡まちづくりの学校コラボ」の企画の中心だった先生方が在籍されていたことも知っていたので、自分に備わりつつあったPCを通じて人がつながる可能性や新しい社会像などを探りたいという意欲が評価され(たと思う)大学院に合格する。学問においては多くの挫折を経験するが、まちづくりや健康福祉政策の最前線の情報を得られ、有意義な時間となるも、その後の就職活動がリーマンショックの時期と重なり苦難の時期となる。
東京の一般社団法人で1年ほど在籍したのち、静岡市に戻り、県のNPOセンターの職員となり、県内のNPOの情報共有や、その頃話題になってきたCSR(企業の社会貢献活動)などの情報収集や発信などに携わる。同時に社会起業家という概念も学び、いずれは自分もと思いつも、資金的余力がないので、考えるだけの悶々とした時を送る。
目標が定かにできないままフリーターの生活に逆戻りしたところで3月11日を迎える。静岡市から沼津市へ仕事で通っていたが、その日は道路が封鎖されて帰宅ができなかった。某家電量販店内で働いていたので、テレビコーナーでの緊急地震速報が一斉になるのには正直うんざりしていた。静岡市にも東北から進学で学生などがきて新しいPCを買う相談など受けるが思い出の品が流されたり、使っていたPCがダメになった話は聞いていてつらかったのは覚えている。
友人の紹介で、コンサルタント会社の調査員で、自治体向けの鉄道を地域振興に役立てる調査を行う。震災のあった年は静岡県も台風災害に見舞われ、自分が担当した大井川鉄道も、一部路線の運休や、駅や列車が埋まるなどの甚大な被害を受ける。直接復興を支援に路線の回復などの現場に立ち会えて自分のことのようにうれしかった。なお、大井川鉄道も在来線は空気を運ぶ存在で、存続が危ぶまれているので、何とかこの魅力は発信したいと思い続けることになる。
調査員は、期間限定の仕事で長く続けることはかなわず、お茶のブレンドのお手伝い、太陽光パネルの営業、サブカルチャーアイテムの買い取り業、桐たんす販売、社会福祉法人での介護士、土木作業員など職種にこだわらずひたすらこなす。
しかし、土木作業員時代に、指の関節の変形の症状がみられ、激痛や日常生活への影響を鑑み、もともと培って来ていたPCスキルを活かした仕事をと思ったところで、現職の派遣の仕事に至る。RPAといPCでの入力業務など定型化されたものを完全に自動化させる、PC内にいるロボットに代行させるツールの利用による省作業化を目指すものであり、将来やってくる人手不足などに対抗する手段として期待されているが普及が進まないものをいかに静岡で拡充させるかに日夜奮闘する日々を送る。
日常の業務に追われるのではなく、開放する立場なので、常にその先を考えて行動することを意識させられていると心得ており、多くの人がいわゆるただ時間を要するだけの業務から解放されることで、よりクリエイティブな業務に専心できたり、業務以外の日常生活の充実につながることを目指し、自分も新しい社会起業を目指していたところ、コロナ禍に世界が覆われる。
社会が閉塞感に見舞われる中、本当に必要なもの大事なものを見つめる機会になったと思い、自分自身も今までの経験を活かし、まだ残っている新しいものを創造する挑戦心を掻き立てて、今回の市議選に挑戦する決意に至る。